貧乏神さん
それは、恐いことおへん。ちょっと滑稽なお話どす。
弥生さんのお客さんで、うちをときどき呼んでくれはるお方どすけど、聖世さんという弁護士さんがおられます。うちらはいつも「先生」と呼んでますけど、ちょっと甘えるときは「せんせ」と言います。この先生、弥生さん来てはるときは、ちょっとだらしないくらいリラックスしてはります。ほんまに弁護士の先生やろかと思うくらいどすが、女将さんや他のお客さんから聞いたところでは、仕事になると別人にならはるそうどす。一度見てみたいと思ってるんですが、うちがお会いすときはいっつもくだけてはります。お遊びで来てはるのですからそれでいいんどすけど。
これも、そんなリラックスしてはる先生から聞いたことです。
その先生の事務所のですが、ビルの中にある普通のお部屋やそうどす。入り口は木製の扉やそうどす。いまどきの事務所で金属製でない扉というのは珍しいそうどす。なにが違うのかというと、非常に軽いそうどす。うちは木で作られるもののほうが好きです。先生も、別段木製の扉であることは嫌いやないそうです。
入口や玄関というたら、弥生さんの玄関の上の方に城南宮さんのお札が貼ってあります。先生がそれを見たはったんで、「あのお札はなんのお守りですか」と訊いてみました。これまでそんなお札が貼ってあるのも気が付きませんでした。
「あれは城南宮さんのお札で方除けのお守りになる。京都では、鬼門にあたる方向にこのお札を貼る風習があるのやけど、聞いたことないか」
「城南宮さんは知ってましけど、それが方除けの神さんとはしりませんどした」
そんな話をした後で、カウンターで美味しいビールをいただいていたのですが、先生がいわはりました。もう、ごきげんになってはります。
「つゆちゃん、ぼくの事務所にはな、いっぱい神社のお札が貼ってあるんやで」
この先生も京都のお方ですから関西弁どすね。なんかだらしのう聞こえまてしまいますけど、辛抱したげとくしゃす。
「どんなお札どす」
「もちろん、神社とかお寺で授かるお札、あれや」
「恵比寿さんの商売繁盛とかですやろ」
「うん、もちろんそれもあるけど、家内安全、学業成就、方除とか、あらゆる種類のお札が貼ってある。特に、鬼門の方角は、表鬼門も裏鬼門も集中的に貼ってあるから、見てるとなかなか壮観なもんだよ」
「ぎょうさんご利益がありますやろね」
「どうかな。あんまりご利益があると思ったことないけど。見てのとおり貧乏してる」
「そんなことおへんどすけど、せいざいご利益いただかはって、もっとつゆ魅を呼んどくりゃす」
「よういうわ。滅多に来てくれへんくせに。つゆちゃんが来てくれるように頼むんやったらどこの神社のお札がいいんやろ」
「あんまりようけの神さんがそこにいはったら喧嘩しはりませんか」
「ようけいはるからなー。そやけど神さんには貧乏神さんもおるで。これはお札がないけどね」
「そんな神さんお札はないですやろね。『貧乏神社』なんてないですもんね。あ、だから先生、そんな神さんはいてはらへんのとちがいますか」
「いやいや、しっかりいよる。これはあちこち動き回りよる。事務所にも外から入ってきよる」
「そんなんこそ来てもらわんようにお札で封じはるのとちゃうのですか」
「いやー、戸口の上にもお札は貼ってあるんやけど、平気みたいや。そらそうややと思うよ。神さんどうしやから」
「なんぼ神さんどうしいうたかて、恵比寿さんが貧乏神さんを見過ごすことはしやらへんと思いますけど」
「そうでもない。貧乏神は行ったり来たり、出たり入ったり、してよる」
「見えるわけやおへんやろ」
「見えはしんけど、だいぶん細身やな。うん、えべっさんとかだいこくさんみたいにお腹が出ていないのは確かや」
「せんせのお腹かてて出ますよ。なんで細身とわかるんどすか」
「わかるんや。戸をちょっとだけ自分で開けてその隙間から滑りこみよる。入ったらすぐに閉めよる。あんな隙間から入れるということは、よっぽど細くて貧弱な奴やと思うわ」
吹き出しそうになりますが、真剣なふりして聞いてあげます。
「“カチャ…”っていうてな、戸がゆっくり閉まるときの留め金が撥ねる音がするんや。わかるやろ。ちっちゃな音しかたてんようにしてるところがかわいらしいやろ。忙しないやつでな、来とる時はしょっちゅう出入りしよる。あ、また入りよった。あ、出て行きよった、とわかるんや」
「あほくさ。せんせだけどすやろ、それが聞こえるのは」
「そうやないって。お客さんと打ち合わせしているときでもね、ときどき『カチャ…』と音がしてな、確かに一瞬戸が開いて閉まるが見えるのや。お客さんかて気になるわな、振り返ってそっちの方見はるんやけど、もちろん、だーれもいてへん。ぼくも知らんふりして話しを続けてるとな、また『カチャ…』と音がする。そのたんびにお客さんはそっちの方を振り向いて見てはるけど、だれも見えへんから不思議そうにしている。知らん人には結構気になる音なんやろな」
「せんせ、ちゃんと戸が閉まってへんのとちゃいますか」
「そんなことない、ちゃんと閉まってる。お客さんかて、自分が入ったときには自分でちゃんと閉めてるのを知ってるから気になるとちがうか」
「キショク悪いとかいわーらへんのどすか」
「お客さんには『気にしんといてください。あれは貧乏神が出入りしてるだけですから』といってあげることにしている」
「いややわー。そんな貧乏神が住み着いた事務所なんか嫌がられますやろ」
「しょうがないやろ、どないしてもぼくの事務所が好きみたいなんやから」
「お祓いしてもらわはったらどうどす」
「別にかまへん。実際に貧乏してるんやから。それにな、お金の方がよっぽど魔物なんやで。みんな貧乏神を嫌いやいうけど、仲ようなったらそんな悪い奴やないってわかるもんや。まぁ、お金には縁がないようになってしまうけど、その方がええこともあるのや」
「そんなことゆうてはらんで、ええお仕事しはって、せいざい花街にも遊びに来とうくりゃす」
「今日一日の飲み代があればそれで結構。もう一杯ビールもらおか」
ビールをおいしそうに飲んだはる先生のお顔はちょっと嬉しそうどす」。
「つゆちゃん、だれか新規のお客さんがきはったんと違うか」
お玄関のほうで『カタン…』という音がしたんで先生がそう言わはったんやけど、うちにも聞こえました。そやけど、だーれも入って来やあらしまへん。ということは、だれぞが出ていかはったんやろか。
あ、もしかして、先生が連れてきてはった貧乏神さんが出ていかはったんとちがいますやろか。 R7.6.14 改定